#38 「生きてたんだ、割り勘おじさん」/妹尾ユウカ

SPECIAL COLUMN

#38 「生きてたんだ、割り勘おじさん」/妹尾ユウカ

割り勘論争。それは、SNSの普及以降、日本人が最も不毛に、そして情熱的に繰り返してきた内戦である。かつて私は割り勘反対派組織の幹部として、このくだらない戦場の最前線に立っていた。過去二度、記憶に残る戦果も挙げている。

1回目は2019年。この時は『飲み会で「千円だけ頂戴」と言う男は、その千円で千円以上のものを失っている』といった趣旨の発言で炎上。2回目は2023年。AV女優が巻き起こした割り勘論争に参戦し、割り勘賛成派で「財布を出さない女は論外」と絶叫する男性たちに「ケチは一人で松屋食っとけ」と真正面から応戦した。

この一連の戦いにより、少なくとも東京都心から割り勘男は絶滅したものと私は確信していた。しかし先日、私はあの戦禍を奇跡的に生き延び、何事もなかったかのように令和を迎えていた一人の男性と遭遇してしまったのである。

東京の最高気温は16℃。2月上旬とは思えない陽気で、春が迷い込んできたかのようなあたたかさだった。その日、中目黒で仕事を終えた私は、後輩のはなちゃんと合流し、代官山のタイ料理屋へ向かった。二人とも初めて入る店だったので、「冒険はやめよう」を合言葉に、生春巻き、カオマンガイ、パッタイを注文した。
話題は、はなちゃんの彼氏のタトゥー問題。
店内がガラガラなのをいいことに、「首までタトゥーが入ってるってことは、絶対なんかの犯人じゃん」「多分、そうです」なんて会話を小一時間ほど続けていたが、それ以外のやりとりについては、もう何ひとつ覚えていない。

お会計のためレジへ向かうと、店員さんから「クレジットカードの機械が壊れてしまったので、少し座って待っててください」と声をかけられた。現金で払えたらよかったのだが、その二週間ほど前、私はヘルシンキ空港でカード類がすべて入ったお財布を落としたばかりだった。
手元にあるのは、母親から渡された家族カードと電子決済だけ。財布は最終的に空港の遺失物センターに届き、郵送してもらえたのだが、このときはまだ、現金はおろかキャッシュカードすら持っていない生活の真っ只中だった。
はなちゃんも、首までタトゥーの入った彼氏がいるのに、あいにくキャッシュは持っていなかった。

「どうしようか」はなちゃんと目を見合わせた瞬間、昼過ぎに届いていた一通のLINEを思い出した。送り主は、代官山に住む39歳の麻酔科医。「今日、予定ありますか?」という短いメッセージに、私はまだ既読もつけていなかった。
すぐに電話をかけると、「お邪魔させてください!」と、迷いのない返事が返ってきた。

電話を切って十分もしないうちに、店の入口にはもう彼の姿があった。「平川さん、こっちです」私が小さく手を振ると、彼も同じように手を振り返し、そのまま席へやってきた。
席につくなり、「ここにタイ料理ってあったんだ」「タイ料理って何を食べたらいいんですかね?」「職場の近くのタイ料理は、一人でも意外と行くんですけど」と、矢継ぎ早に話し始めた。

平川さんが注文したのは、グリーンカレーと唐揚げ、それにオールフリー。そういえば、4か月ほど前、共通の友人らを交えて食事をしたときも、平川さんは唐揚げとチーズ巻きのようなものを、一人黙々と食べていた。
私はこれまで、いわゆる食通のおじさんをあまり得意としてこなかったのだが、この食の好みがあまりに幼稚な39歳を見て以降、食通のおじさんのほうが、まだ話が通じる気がしていた。
ちなみに、そのチーズ巻きのようなものを爆食いしていた帰り道、平川さんから旅行に誘われ、私はそれを断っている。この日は、それ以来の再会だった。

「妹尾さん、最近はお忙しいですか?」
実際はそうでもなかったが、「そうですね。執筆があるので少し」とそれっぽく答えると、はなちゃんが隣で頷いた。その後も、私が平川さんに小さな嘘をつくたびに、はなちゃんがコクリとアシストをする。その繰り返しのまま時間が過ぎ、ようやく会計の時が来た。
相変わらずクレジットカードを読み取る端末は壊れたままで、店員さんが席へ「PayPayか現金で支払ってほしい」と頼みにやってきた。
すると平川さんは急に慌て出し、「カード使えないんですか?QUICPayは?それか、これはあります」と、なぜかスマホのウォレットを開いてカード一覧を見せていた。

みっともないので、私が「PayPayは復旧したんですか?それなら払います」と言ってレジへ向かうと、「え、どうしたらいいんだろう。じゃあ、このなけなしの現金を渡します」と言いながら追いかけてきて、丸まったお札を差し出してきた。会計は八千円、渡されたお札は三千円だった。とにかく全部がみっともないので「大丈夫です」と断ると、「女の子なのでダメです。タクシー代にでも」と三千円を手渡してきた。

「私が現金さえ持っていれば」そんな反省を抱えたまま店を出た、そのときだった。
「もう現金が一万円しかないですよ。危なかったです」平川さんは無邪気な声でそう言うと、丸まった一万円札を取り出し、何事もなかったかのようにカバンへしまった。

意味がわからない。さっきの三千円は何だったのか。なけなしとは何なのか。危なかったとは、いったい何を指しているのか。全てがさっぱり理解できない。
私は何も言わず、ただはなちゃんの方へ視線を送った。「こいつ、ヤバくない?」無言の問いかけに、彼女は静かに頷いた。

「このあと方面どちらですか?」私がようやく声を絞り出すと、平川さんはなぜか少し間を置いて、「このあと、お二人はお忙しいですか?」と聞き返してきた。
「今日は帰ります」そう答えた私は、被せるようにもう一度尋ねた。「方面はどちらですか?」
すると平川さんは、今度は妙に明るい声で、「こっちです!」と言って右を指差した。私はその指先の方向だけを確認し、「私たちはこっちなので、また」と左へ大きく踏み出した。
左はかなりの遠回りだったが、そんなことはどうでもよかった。一刻も早く、平川さんから離れたかったのだ。

数歩進んだところで、はなちゃんが口を開いた。「あれ、どういうことですか?」私は少しキレ気味に「知らないよ。こっちが聞きたいよ」と返した。

SNS上でこういった発言をすると、地方在住金なしジジイ御一行から、必ず「乞食?」といったコメントが付くのだが、ご飯すらも奢らずに下心を抱くジジイの方がよっぽど卑しくて図々しいとは考えないのだろうか。
そして、奢らないのは結構だが、世の中には奢る派の男性がたくさんいる中で、金も出さないジジイにどんな勝ち筋があると想像しているのだろうか。奢らなかったことを帳消しに出来るほどの魅力がなにかあるのだろうか。

たかが数千円を惜しんだ代償は、金額の価値をはるかに上回る。あと四千円さえ払っていれば、こんな風に書かれることもなかったのだから。
こうした損失は、そう簡単には回収できない。なぜなら、金銭感覚の問題ではなく、人間性の問題として処理されてしまうからだ。人は金額そのものよりも、そこに表れた判断を見ている。数千円で守られる評価は、確かに存在するのだ。人間関係の印象とは、決定的な出来事よりも、こうした些細な選択の積み重ねによって、静かに、しかし不可逆的に形作られていくのではないだろうか。

妹尾ユウカ

独自の視点から綴られる恋愛観の毒舌ツイートが女性を中心に話題となり、
『AM』や『AERA.dot』など多くのウェブメディアや『週刊SPA!』『ViVi』などの雑誌で活躍する人気コラムニスト。
その他、脚本家、Abema TVなどにてコメンテーターとしても活動するインフルエンサー。

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